2006年4月 8日 (土)

ヴェネツィアからフィレンツェ

Img_0031 (写真1)

 シャルル・ドゴール空港を飛び立ったのは午後9時を回っていただろうか、眼下にエッフェル塔の飾光が見える。2時間前は真昼のように明るく、柔らかな緑の平地が限りなく視野を占領していた。フランスが農業大国であることをあらためて実感した。

 20年ぶりのイタリアに胸躍らせる。訪伊は6回を数えるがヴェネツィアは初めてなのだ。漆黒の空を1時間と少しでマルコ・ポーロ空港にランディングした。肩や足腰が重い。体中が突っ張っている。成田を発って13時間は機上の人であったのだから無理もない。ガランとした空港内を足早に進む。さすがにこの時間では人もまばらだ。到着ゲートには我々乗客ぐらいである。入国手続きを済ませロビーに出ると現地の関係者が迎えてくれた。

 左右に広がる海を見ながら、長いリベルタ橋を車で渡りローマ広場に着いた。この広大なバスターミナルに隣接する桟橋から水上タクシーに乗り込んだ。薄暗い運河を小刻みにくぐり抜けカナル・グランデ(大運河)に出ると、ぼんやりと見覚えのある光景が浮かび上がった。本で見た、テレビで視た、あのリアルト橋の全景が目の前にあった。

 そして待望の朝、窓の外は霧のような静かな雨だ。いてもたてもいられず早々と朝食をすませリアルト橋とあらためての対面である。 巨大だ!偉大だ!思わず立ちつくした。  ・・・・・・・・・・・全長48メートル・全幅22メートル・水面からの高さ7.5メートル・・・・・・・・・・      周りは人・人・人、この歴史の街に世界の人が溢れている。

 「ヴェネツィア」・・・6世紀、ヴェネト地方の住民がラグーナの島々に建国した。697年、初代総督パオルッチョ・アナフェスタが共和制を確立する。

 写真1は「リアルト橋」(別名「白い巨像」)からの風景である。私が今描いている油彩、リアルト橋そのものに立ち、大パノラマをデジカメにおさめた。ファインダーに広がるイタリア最初の記念すべき一枚である。

 リアルトとは、高い土地の意味で、ここがヴェネツィア発祥の地である。海抜が高く水害から逃れやすい土地であることから早くから集落ができたそうだ。古くから商業の中心地であり、交易品の流通で経済を築いてきたのだ。当初は木造で「富の橋」と呼ばれていたが1591年、石造りに改修された。この橋の設計コンペにはミケランジェロも参加したそうだが、結局、建築家ダ・ポンテの設計が採用された。思えば、彼が選ばれて当然と言えることは、「ポンテ」はイタリア語で橋を意味しているからである。

 浮島であるヴェネツィアの地盤は泥土で、5~10メートルの唐松材のクイを打ち込み、その上にユーゴスラビアから運んだ水に強いイストリア石を積み、周囲に煉瓦の壁を立ち上げる建築方式である。

 市内交通は、水上バス(ヴァポレット)・水上タクシー・ゴンドラであり、市街地での車は見かけることもなく異空間にいるようだ。迷路のように入り組んだ路地を歩くとすれ違う人と肩が触れるほどである。この狭さが更ににぎわいを際だたせている。ウインドーショッピングやお目当てのレストランを探しながら散策する楽しさはヴェネツィアならではと言えそうだ。

 リアルト橋からサン・マルコ広場へ向かう。地図とにらめっこしながら立ち止まることもしばしばだ。狭い道が交錯してとても解りにくい。少々弱気が頭を持ち上げはじめた。ふと目線を上に移すと、窮屈そうに軒を合わせる建物の壁に矢印で主要地への案内サインがあるではないか。みるみる土地勘が身に付いてくる。見慣れた店名のショップのオンパレードだ。ブルガリ・フェンディ・シャネル・ヘレンド・ウエッジウッドなどなど・・・イタリアらしい色とりどりの小路を抜けると突然前方が大きく開けた。

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 サン・マルコ広場だ!あまりの広大さに驚嘆しつつ、更にサン・マルコ寺院の威容に思わず息を呑んだ。そして、5つのモスク風ドームを頂く建築美は中近東・エジプトを彷彿とさせ、人々の心のよりどころとして、礼拝の列は切れ間なく続いている。南側のサン・マルコ運河を挟んでサン・ジョルジョ・マジョーレ教会が景色を飾っていた。

 写真2は、サン・マルコ広場で、「世界で最も美しい広場」とナポレオンが絶賛したと言われている。イタリア語で広場を表す「ピアッツァ」は、ヴェネツィアではここだけに使われ、他の広場は「カンポ(原っぱ)」と呼ばれているそうだ。

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写真3は、サン・マルコ寺院である。118もの小島からなるヴェネツィアのシンボルだ。独立国家たる精神的基盤として、828年エジプトのアレクサンドリアから守護聖人マルコの遺骸を買収し宗教的象徴として安置した。ビザンティン様式である現在の大聖堂は1063年に改修が始まり約400年後に完成した。写真右端にそびえ立つ、高さ96メートルの鐘楼は、1902年に崩壊したが1912年4月、「聖マルコの祝日」に再建された。

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 サン・マルコ寺院の東に隣接してドゥカーレ宮殿がある。ヴェネツィア共和国の栄光を象徴する総督の館は、壁画と彫刻に彩られたゴシック建築の至宝と言われる。写真4は、運河を挟んでつながる牢獄から、尋問を受ける囚人達がため息と共にこの橋を渡ったことから「嘆きの橋」と名付けられた。1600年、アントニオ・コンティーノによる建築である。

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 サン・マルコ広場の西に位置するコッレール博物館の裏手が写真5である。ゴンドラが幾艘も出入りし、周辺にはヴェネツィアンガラスの工芸店、手の込んだ刺繍の店、アンテイークやブランドのお店がひしめいて競っている。

 水の都ヴェネツィアの中心、サン・マルコ広場は、東側にサン・マルコ寺院、ドゥカーレ宮殿、西側をコッレール博物館に囲まれている。テラス席を並べるカフェでは楽団が、これぞイタリアンとばかりに陽気な演奏をしている。取り巻く人々は皆、曲想に合わせ揺れ動いている様が何ともおかしい。隣接するショップ達もバラエティに溢れ実に楽しいのだ。

 数年前オランダはアムステルダムを旅したとき、陶器でできた親子の馬の置物に魅せられ購入した。それをきっかけに旅の先々で馬のグッズを探すようになった。当然のことながら散策の道すがら気になるお店をチェックすることになる。サン・マルコ周辺では二頭見つけた。一頭はヴェネツィアングラスのトンボ玉を溶かし流したような逸品である。もう一頭は銀の小品だが、たてがみから引き締まった胴、脚にかけて厚みのあるエナメルで仕上げられている。決して高価ではないが、どちらもデザインの安定感と手づくりの細密さが私の感性を引きつけてくれた。歴史とともに培われ継承されてきた工芸技術の力と、高い芸術性に感動した。そして次なる出会いに思いを馳せながら再び歩きはじめた。

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 ここから迷路のような小路を抜けリアルト橋の北にあるレストラン「アルミリオン」で夕食だ。お昼にアーティチョークのビッザを味わったので今宵は、鰯のマリネ、スカンピ、ボンゴレ、ズッキーニのリゾットそして当地の白ワインをオーダーした。四方八方が海に囲まれたヴェネツィアの魚介はさすがに美味だ。デザートはティラミス、そしてカプチーノでイタリアをお腹にしまい込んだ。

 サン・ザッカリアからヴァポレット(水上バス)に乗りムラーノ島へ向かう。船首近くに席を取り座ってみたものの、窓額に写る景色の素晴らしさに立ち上がってキョロキョロの観光客の典型である。360度のパノラマに見とれ尽くしてしまう。斜め前に黒のシックな装いの女性がいる。手には花束だ!ふと思いがよぎった。シシリーのマフィアではないか?この先はサン・ミケーレ、墓地の島なのだ。麻薬を巡る抗争で命を落とした家人の墓参りであろうか?マーロン・ブランドの「ゴッドファーザー」のシーンがテーマ曲とともに想像の世界をつくる。案の定か?サン・ミケーレ島で下船した。

Img_0047 (写真7)

 写真7はムラーノ島到着まじかの風景である。ムゼオで下船しガラス工芸博物館で伝統工芸の歴史に触れた。サン・ピエトロ・マルティレ教会付近からコロンナまで、運河を隔てた両岸にはガラスショップが軒を連ねている。ここがこの島のメインストリートなのだ。今もおよそ200の工房が所在し、それぞれが熟練のマエストロ(工芸師)を擁して伝統の秘法を守り続けていると言う。一見、同じに思える作品も店によって微妙な違いがある。価格も勿論だ。とにかく歩く、行ったり来たりの品定めは瞬く間に時間の経過を促す。オーソドックスなシュガーポットとぐい呑みに応用できそうなグラスの幾つかを手に入れた。

Img_0046 (写真8)

 13世紀末、火災の危険と技術の流出を防ぐためにヴェネツィア共和国がマエストロや職人達を移り住まわせたヴェネツィアングラスの純粋培養の地が、このムラーノ島である。街並みはカラフルで、立ち並ぶ多くのショップはオリジナリティに溢れ目移りするほどの豊富なアイテムが並んでいる。正統派の古典的作風から、いかにもイタリアンテイストを感じさせる斬新なデザインや色づかいに感心しきりである。流行のビーズアクセサリー趣味の人達にはヨダレが出そうな逸品がよりどりみどりだ。更には思いのほかリーズナブルなのだ。

 写真8は、野菜や果物を売る船のお店で、いかにも水の都らしい風景である。

 また、写真9は、この島で見つけた、私の「掘り出し物」たちである。

Img_0100 (写真9)

 118の島を400の橋でつないだヴェネツィアでは、大運河が「世界で一番美しい通り」と言われるメインストリートである。水の上からは、くぐり抜ける橋に感動し、迷路のような小路を歩くと出会う橋の数々に絵心を誘われる。ヴェネツィアの街は、何処を四角いフレームに切り取っても心揺すられる絵画になってしまう。今日もまた素敵な出会いがあった。込み入った小路を抜けて一本の橋にさしかかり何気なく見上げた風景に見覚えがあるのだ。1998年3月に描いた「橋からの風景」と相似的だった。ある雑誌に見つけた写真に心奪われて油彩の筆を手にしたのだ。偶然とは言え、この場所に行き会わせる嬉しいいたずらをしてくれた神様は、何と粋な人?なのだろう。写真10がその風景である。

Img_0033 (写真10)

 ヴェネツィア最後の晩餐は「アッレ・テスティエーレ」にした。気さくなオーナー、ルカさんのお薦めは、じゃがいものニョッキでイカスミソースだ。一の皿には牡蠣とムール貝、二の皿はエビのトマトソース、そしてヴェネット州の白ワインとなる。ゆったりとした時間が異次元を演出する。ほろ酔いと心地よい風に吹かれながら、夜のこの街を心のファインダーに焼きつけた。

 サン・マルコ運河を隔てて南西の方向にリド島が見える。ヴェネツィア国際映画祭の開催地でもあるリゾートだ。金の獅子を受賞した監督・北野やキムタクもこの地を訪れている。残念ながらここまでは足を延ばすことができなかった。

 建物と建物が寄り添い、あなぐらののような小路のあちこちに仮面、陶器、版画、クラフトなどの店が連なる。何気なくのぞいたレースの店も優雅な気分にさせてくれた。精密に糸を編み上げて生まれる伝統工芸の極みと言える。手頃な楕円のテーブルクロスを購入した。何とお揃いのナプキンが4枚付いているではないか!すっかり嬉しくなった。

 結局ゴンドラには乗らなかった。客引きにしつこく誘われると食傷になる。シンガポールの輪タクもそうだった。それでも充分なヴェネツィアだった。

 まだ人もまばらな早朝7時前、リアルトから水上タクシーに乗りローマ広場へ向かう。橋を一つ、また一つとくぐりながら目の前のヴェネツィアが後ろに流れ消えて行く。次への期待も大きいのだが、名残惜しさもそれ以上に大きい。我が人生の徒然にも同じようなシーンが幾度となくあった。

 重さが増したヴァゲージを転がし迎えのバスに乗り込む。今日の旅程はヴェローナからパルマを経てフィレンツェに入る。運転手のブルーノは百戦錬磨のツアードライバーらしい。ハンドルを握りながらも口は止まらない。竹ノ内豊主演のドラマ撮影では移動の運転手だったと得意気だ。日本人ツアーのあれこれ、大好きな日本に行った話と尽きることがない。さすがに伊東温泉はご存じなかったが、大いにPRしてきた。特に湯の花お湯かけ七福神の話にアンテナが響いたのか、ごそごそとバッグの中を物色し始めた。探し当てて見せてくれた物は、何と寿老人のキーホルダーではないか!こんなこともあるだろうと持参したお湯かけ七福神のシールをプレゼントすると大喜びしきりであった。準備はしておくものだ!!

 バスはヴェローナに向かって走る。運転手のブルーノが言うには、今日は復活祭で車がすいているそうだ。不思議なことにハイウェイの路側には一本の照明灯もない。イタリア人は車のライトだけで夜のハイウェイを走り抜けるのだ。そのせいか路肩には横転した車がある。

 見渡す緑の平地の中、空に向かって勢いよくのびるポプラの樹並みが目に付く。お決まりのように川の近くにあるのだ。ポプラは豊富な水が大好きなのだそうな。

 2時間足らずでヴェローナの街に着いた。

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 シェークスピアの名作「ロミオとジュリエット」のモデルになった13世紀の建物が写真11の「ジュリエットの家」である。中庭のジュリエット像の右胸に触れると幸せな結婚ができると言われているそうで、ピカピカに輝いている。ずうずしくとは思ったが、私もあやかり?のタッチを試みた。

Img_0059 (写真12)

 紀元前1世紀、古代ローマ時代の円形劇場であるアリーナに入った。長さ140メートル、幅110メートル、広さ3200平方メートルの巨大な石の建築物だ。44段の階段席に22000人の観衆を飲み込んでしまう。驚くことは歳月や巨大さばかりではない。今も夏の宵に野外オペラが上演されていることである。目を瞑り耳を澄ますと夜空に響く演者たちの歌声が聞こえてくるようだ。写真12は、アリーナの中から街角を透きとおした一枚である。アーチ型の出入り口を閉ざす重黒い鉄の門扉の向こうに、歴史を育んだ「今」が見えた。

Img_0058 (写真13)

 この街から採掘された桃色がかった大理石は、このアリーナ(写真13)にも、街のにぎわいをつなぐ石畳にも、ヴェローナのアイデンテティを発信し続けている。

 それにしても絶好の旅行日和だ。常日頃の行いを見ている神様がきっといるに違いない?半袖でも良いくらいだ。少々汗ばむほどである。見渡す限りつづく田園風景の中をバスはひた走る。インターチェンジを降りるとおかしな塔?が目に映った。近づくにつれて塔の正体があらわになる。超小型車スマートだ。クリアーな立方体ケースに15台は積み重なっているだろう。どうやってこの車達を入れたのだろう?

 ブルーノで思い出がある。1980年、2回目のロンドン、オロ・インターナショナルのステージに出演した。日本代表8名の一人としてウエンブリーの大舞台に立ちアーテイスティックなヘアスタイルを世界に発信したのだ。この時、準備の一切をプロデュースしてくれたのが世界的美容家トニー&ガイだった。この三男坊がブルーノである。彼とは特に親しくなり、翌年我々の後押しで来日し、新宿京王プラザホテル・コンコードボールルームに、全国から駆けつけた2000人の美容師の前で、再び競演を果たしたことを懐かしく思い出した。当然ながらトニー&ガイはイタリア人であり、歴史に裏打ちされた斬新なヘア・デザインは、「流行」として世界を席巻したことは言うまでもない。

 そして、今ハンドルを握っている陽気なイタリア人ブルーノは、私が出会った二人目のブルーノなのである。・・・・・さぁ、パルマが目の前だ。

 ポー川を渡りパルマの街に入る。ここにも大きな広場と宮殿、そしてドウオモがある。それぞれが都市国家として独立し独自の文化を築き、歴史を創ってきたのだ。何か耳ざわりがあると思った。パルマは中田ヒデが所属したサッカーの街だ。そして、運転手のブルーノは熱狂的なパルマファンだった。

Img_0061 (写真14)

 さて、お腹の虫も騒ぎ出した。目の前に見覚えのある風景(写真14)がある。ここはカフェなのかバールなのか?以前ローマの街角を描いた風景と酷似している。1997年の油彩である。ヴェネツィアにつづいてパルマでも、絵画の中の風景に出会えた。

 ここでお昼にした。ペンネのトマトソース、生ハムのアラカルトに本場パルメザンチーズだ。アルデンテのペンネは、軽く絡めただけのトマトソースでも、素材そのものの味がしっかりしていてとても旨い。パルメザンチーズは小さな固まりで添えてある。適度に切り分け生ハムと一緒に放り込む。肉と乳の熟成のなれの果てを同時に食すと、芳醇な香りと旨味が口腔に充満してくる。これもまた旨い!

 パルマからフィレンツェへは山越えである。車窓には、山肌が柔らかな緑に覆われた、まるでアルプスの高原を思わせる景色が映し出される。牛も羊も、のどかに草を食んでいる。樹先を真っ青な大空に突き刺すような糸杉や、緑葉に白いベールを被せたような色をしたオリーブの樹林が目立ちはじめた。あきらかに南に向かって走っていることが解った。遙か遠方にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が見える。まもなくフィレンツェだ。

 過去5回の訪伊は、美容の関係だった。ロンドン・パリ・ローマを回って2週間と相場が決まっている。英・仏でヘア・ショーや研修をする。そして骨休みに3日位イタリアに立ち寄る感じである。何度目のローマだっただろうか、スペイン広場もトレビの泉も毎々行くこともないだろう・・・と思っていたので、ツアコンとの相談の結果フィレンツェへ行くことになった。日本を離れて10日も経つとちょっぴりホームシックになる仲間も出てくる。怒りっぽくなる奴、萎んでいる奴、やたら大騒ぎする奴など、雰囲気が淀んでくる時だけに気分転換にもなる。皆大喜びだった。思いがけないバスの旅だ。どれくらいの時間が掛かったかは記憶がぼやけているが、ルネッサンスのかぐわしい香りを残すフィレンツェ!歴史、文化芸術の街に大きな感動を覚えたことだけは鮮明に残っている。

 日帰りだったので、ゆっくりの散策はままならなかったが、必ず再たこの街に戻ってこようと思った。さぁ、バスに戻る時間だ。決まって遅れるおばさん二人組がいる。ツアコンが点呼を取ると、いつもその二人がいない。今度は押し売り土産屋のカモになっていたようだ。

 車窓から眺める空の色が重くなってきた。雪だ、雪が降ってきた!バスはそれぞれのフィレンツェ観を載せてローマに戻っている。マイクが回ってきた。今こそ演歌を歌う時だと感じた。曲は「氷雨」にした。カラオケもない、歌詞カードもないそんな中で、記憶をたどりなが唄いはじめると皆一緒に唄い出した。大合唱で一つになった気がした。きっと日本を何かで感じかったのだろうと思った。・・・・・そんなことをあらためて想い起こした。

Img_0064 (写真15)

イタリア中部を東西に流れるアルノ川、河岸に発達したフィレンツェの中心には、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂がそびえる。中世の封建体制を脱却し、新しい文化を求める気運がここフィレンツェに端を発し、15世紀にルネッサンスの花が開いた。自由で明朗な、ありのままに人間を描き出す芸術や文芸が古代ローマを手本としたのだ。ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの天才達が、この街に美を紡ぎだして約500年、今なお芸術のかぐわしい香り漂う街そのものが一つの美術館のようである。

 一方、フィレンツェは職人の街でもある。マーブル紙、皮革製品、刺繍などの伝統工芸の店が多く、ヴェッキオ橋の両側には、金銀宝飾工芸の店が軒を連ねる。あの有名ブランドのグッチ(鍛冶屋)やフェラガモ(靴屋)もここが創業の地であり、世界進出を果たしているのは周知の通りである。写真15は、ミケランジェロの丘からアルノ川左のヴェッキオ橋、右手の大円蓋を誇るサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、そのすぐ左の高い塔がジョットの鐘楼、その左奥の円蓋がサン・ロレンツォ聖堂、更に左の補修中の塔がヴェッキオ宮、そしてウフィッツィ美術館を一望したショットである。

フィレンツェを訪れるのはおおよそ20年ぶりである。ロンドンで開催された美容の世界大会に日本代表として出演を果たした。その足でローマに入った。そして、翌日にこの地を体感したことを昨日のように思い出した。

 石造りの建物は、変わることなく守り活かされている。ウフィッツィ近くの名もないバールで口にしたエスプレッソの強烈な苦さを忘れることができない。そして、夕闇迫るフィレンツェの街と、ミケランジェロの丘から別れを告げた、あの時と同じ目線で、今この丘に立っている自分がいる。

Img_0068 (写真16)

 イースターでお店の殆どが閉まっていたが、日が暮れるまでにはまだしばらくある。街の一つひとつを確かめたい思いに駆られ大聖堂を目指した。渋いオレンジブラウンの連なる屋根、石造りの街並みを縫うように走る小路、その隙間の空を見上げると必ずドウオモが居る。迷わずたどり着いた。

 いたる所に聖堂や礼拝堂があるフィレンツェ。キリストの復活を祝う特別の日でも開いてるショップがあるではないか!世界各国の老若男女がこの地を体感しに来ているのにもったいない・・・と思っていたのだ。時の流れとともに経済や環境、そして考え方も変化して当然である。お客さんは大入りだ。溢れる笑顔でショッピングを楽しんでいる。お客さんも経営者も嬉しいことならば神への冒涜もあろう筈もない。キリスト様もきっとお喜びのことだろう。

Img_0065 (ピンボケ写真17)

 お腹が空いてきた。お昼はラザーニアとポルチーニのパスタにした。小タマネギのソテーはすき焼き風の味付けでなかなかである。大食らいの私は、更にポークのローストもたいらげ、カプチーノで終わった。アカデミア美術館の近くで、何気なく入ったレストランはことのほか口に合った。

途中、レプブリカ広場に差しかかると、何とメリーゴーランドがある。時代建築に囲まれた懐古空間に、遊園地の賑わいが不思議とマッチしている。思わずシャッターを切ったが、とんだピンボケだ!!右を見るとバントマイム、その隣にはスプレーアートのパフォーマーが幻想的な絵を描いている。左には石膏像になってビクリとも動かない白塗りの大道芸人、長い草の葉っぱでバッタを作っている中国人ときりがない。街角がオモチャ箱のような楽しさである。イースターのイベントかと思い聞いてみると日頃の風景だと言う。普段の生活の舞台が歴史であり、観光であり、勉強であり、そして楽しさ・豊かさなのだと感じた。

 既に17時を回っている。目の前のドウオモに登るのは明日にしよう。

Img_0070 (写真18)

 「花の聖母」の名を冠したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドウオモ)は1296年、建築家アルノルフォ・ディ・カンピオによって着工されたが、彼の死により幾度となく中断されたと言う。直径42メートル、高さ100メートルを越える巨大な円蓋は、フィリッポ・ブルネッレスキが16年の歳月をかけて1436年に完成させた。鐘楼はジョットにより建築され、白と緑の大理石で飾られた八角形の礼拝堂を含め、全ての完成までに600年の永きを要した。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の円蓋の設計をローマ教皇から依頼されたミケランジェロは、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂より美しいものを造ることはできません」と答えたそうだ。

 中央駅近くまで歩いたであろうか、レストラン「ダンテスカ」を探し、足が棒になった。前もってチョイスしただけのことはある。パスタは勿論だが、この地方で飼育されている白い牛のステーキが絶品であった。適度に火をとおした絶妙のレア具合で、ルッコラの上に7ミリくらいにスライスされた肉達が皿を飾っている。あっさりとした塩、コショーだけの味付けが素材を引き立てていた。

 アカデミア美術館は驚くばかりに長蛇の列だ。仕方なく断念した。ダビデの像は修復中と聞いていたので、再会が叶わなかったがあきらめはつく。ミケランジェロの丘で会ったレプリカで我慢しよう。

Img_0082 (写真19)

 まだ寝起きなのか、表情のさえない係員からチケットを買う。イタリア人は陽気な筈なのに・・・と思いながら6ユーロを手渡した。ジョットの鐘楼に足を踏み入れると、薄暗いトンネルのような螺旋状の階段で、驚くほど狭い。まだ誰もいない。我々が今日の一番だ。414段とは伊東市の郵便番号と同じである。どうでもいい偶然を少しだけ喜びながら一段、また一段と登る。進むにつれて数えていた段数も忘れてしまうほどに息が大きくなる。結構厳しい!後から来た数人を先に行かせる時も、忍者のように背中を壁にへばりつかせ一苦労である。外国人は表情がとても豊かだ。「アリガトウ」と「ガンバッテ」の気持ちがダイレクトに伝わってくる。こちらも精一杯の表情筋を駆使して答える。小窓から見えるフィレンツェの街景は心揺さぶられる絵画のようだった。

 ジョットの鐘楼はドウオモからおよそ50メートルを隔ててそびえ立つ。画家であり建築家でもあるジョットによって建てられた。1334年に着工されたが、彼の存命中にその勇姿を見ることは叶わず、完成は1359年であった。

Img_0069 (写真20)

 ルネッサンス期、野心を抱いた芸術家達はこぞってフィレンツェに集まり、才能を競い合って芸術の新時代を築いていった。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大円蓋工事は、あまりの巨大さに不可能と言われたそうだ。礼拝堂門扉の浮き彫りコンペの際、ギベルディに敗れたブルネッレスキは、この大円蓋コンペで見事雪辱した。木材での型枠組みに石材を積み、モルタルで固める従来の方法では困難と見極めた彼は、大円蓋を二重構造にして上に築いていく建築法を編み出した。二重構造は重量を分散するので、屋根の重みで建物が崩れる危険を防いだ。また、二重の円蓋の間には作業する空間も確保でき、工事の安全性も高める結果につながった。

Img_0073 (写真21)

 時の権力者、財力者に見そめられることは、パトロンの元で大きな芸術を手がけることができる。才能と野望を持つ多くの者が、競い合うことでより質の高い芸術文化と歴史がこの地に集約されたのだ・・・・・と、15世紀のフィレンツェに思いを馳せ、その中にタイムスリップできる自分が嬉しくなった。

 ジョットの鐘楼の最上階までの登りはかなりきついものがある。何せ414段だ。途中休みながらシャッターポイントを探す。四角い小さな小窓から大聖堂クーポラの塔頂が目の前に現れた。写真21は、二人がすれ違うことすらできない窮屈な階段の壁にへばりついてアングルを決めた苦心の一枚である。

 本当はドウオモにのぼる筈だった。8時半頃ドウオモに着き、係員に「入館は何時から?」と片言の英語と精一杯の身振りで尋ねてみた。解ろう筈もないイタリア語を「10時から」と聞き取ったことでジョットの鐘楼へのぼることになったのだ。しかし、ファインダーをのぞくと既に展望台から街を見下ろす人達がいるではないか!はっと気がついた。10時ではなく、10ユーロだったのだ。しかし、怪我の功名とはこのことである。ドウオモにのぼればドウオモは撮れないことになる。

 塔頂の先端に輝く金色の球と十字架は、レオナルド・ダ・ヴィンチらが地上80メートルの足場に大クレーンを設置して取り付けたと言う。およそ600年も前の建築技術で造られたこれらの世界遺産は、限りない人間の可能性をあらためて教えてくれた。

Img_0072 (写真22)

写真22は、のぼる途中のアングルである。アーチ型の小窓から見渡すフィレンツェの街並みは、オレンジがかった茶色の屋根が連なっている。ヴェネツィアもヴェローナもパルマも、そしてこの街も屋根は皆この色だ。焼きの温度の違いなのか?土の産地の違いなのか?濃淡や色合いの微妙な違いでイタリアらしさを膨らませているモザイク画のようだ。

 ドウオモの方が高いのだが、この鐘楼も高い。85メートルから下界を見下ろすのは、高所恐怖症の私には到底できない。へっぴり腰で遠景を眺めるのが精一杯だ。

Img_0084 (写真23)

 街の景観を守ると言うことは、街や産業の維持、保全、育成にかかわる精神と実行をリードするマンパワーを継続しつづけることが必然であり、この地だからこそ培えた伝統技術を継承することと並行することである。要するに、マエストロなくしてあり得ない訳で、その価値や地位が国家レベルで保たれることによって成り立つのであろう。何が大切なのかを見極める国民意識、郷土愛の格差は「まちづくり」を大きく左右する。歴史を守ることで歴史が創られて行くのだ。

 街のあちこちで出会うオープンカフェ、道路の半分以上を占有するお店もある。警察の許可は必要ないのか?日本だったら大変なことになる。スローフードの先進イタリアでは、食の楽しさが文化や交流、経済をつくることを先見しているようだ。遅ればせながら我が国でも2004/9月から11月まで、全国11の市町で規制緩和するらしい。今後に期待する所である。

 やたら目につく建築クレーン、この街では文化・歴史を保全する象徴とも言えそうだ。家並み、街並みを大切に守り、積み重ねた時代のニュアンスを失うことなく次世代に継承していく職人や住民の姿勢が、訪れる人々の感動を創り出すことを語り伝えている。やはりフィレンツェの街そのものが美術館なのだ。

Img_0074 (写真24)

 ジョットの鐘楼最上階、フェンス越しの一枚が写真24である。空間を隔てて区分するだけならば単なる鉄柵で済んでしまうのだが、デザインされたフェンスが創り出す垣間見える空間もまた美しいものだと感心してしまう。

 フィレンツェに於けるルネッサンス絵画の巨匠の一人、「気まぐれな変人」と言われたレオナルド・ダ・ヴィンチは、気が向くと絵筆を手にする私にとって大いに惹かれる謎多き孤独の画家と言える。その微笑みが何を意味するのか?私が25年前、ルーブルで逢った「モナリザ」は何も語らない。レオナルドが死ぬまで手放さなかったのは何故だったのか?

「人間を描く為には腱や骨、筋や肉の構造を知ることだ」と、彼自身が解剖した死体は30体にも及んだと言う。興味を持った対象にはとことん向かい合うが、満足してしまうと筆を置いてしまう気ままさ故に作品を完成に至らしめないことも多かったようだ。広い視野に膨らむ好奇心は、絵画・建築・都市計画・運河工事・飛行機・潜水艦・人体解剖とマルチな才能を発揮していった。メディチ家をはじめとするパトロン達が未完の作品を良しとする彼に不信感を持つようになったのは当然であろう。レオナルドは30年住み慣れたフィレンツェを後にミラノに制作の拠点を移す。この時代に描かれた作品が「最後の晩餐」である。再びフィレンツェに戻ったレオナルドが51才で着手したのが「モナ・リザ」だった。描き終わった作品には執着しない彼にとって「モナ・リザ」だけは例外であったようだ。フランス、アンボワーズ城近く、クロ・リュセで67才の生涯を終えるまで、何処へ行くのにもこの絵を携え、筆を加えていったと言う。500年を経た今も、その眼差しは見る人の心を捉えてやまない。彼の遺骸はその後行方知れず、永遠の孤独と謎の中にいる。

Img_0075 (写真25)

 朝一番でウフィッツィ美術館に向かう。拝観のために既に長蛇の列だ。ヴェッキオ宮に連なるここは、1580年トスカーナ大公コジモ一世が建築家ヴァザーリに設計を託し建築させた広大な事務所であった。翌年、後継のフランチェスコ一世は、最上階をメディチ家歴代の当主達が収集してきた膨大な美術品を収蔵する場所として改装させた。それが世界屈指の規模を誇る芸術の殿堂となっている訳である。

 館内に入ってもまた人、人、人の連なりである。ようやくチケットを買いパスポートを預け8.5ユーロを支払い案内テープを借りた。やっと宝物に出会える!そして20年前に出会った絵画達との再会が始まるのだ。

 1485年頃、おおらかな人間賛歌の時代が到来したことを告げるルネッサンスの象徴的な作品がボッティチェッリのヴーナスの誕生である。教会が絶対権力を握った中世以降は、裸の女性を絵画の主題にすることはタブーとされていた。まさに芸術の新潮流が波動を始めたのだ。ブルネッレスキによって発見された技法「遠近法」もルネッサンス期に確立され、後の多くの画家達の心を捉えていく。その後ダ・ヴィンチによって「空気遠近法」(色彩の濃淡で距離感を表現)が提唱された。

 記憶の糸をたどりながら、それぞれとの再会を果たす。余りに広大で、余りに膨大な展示品との会話にも少々疲れてきた。ゆうに3時間は経過している。ミケランジェロにもダ・ヴィンチにも、そしてラファエロにも再び会えた。感激が体中に満ちていく。

 ヴェッキオ橋を渡ってアルノ川南岸まで歩いた。ここもまた賑わいを呈している。地場の産物や工芸品の店とともにブランドショップも活況だ。そんな中、初老の理知的なメガネ美人が切り盛りするステーショナリーのお店に入った。素敵なマーブル紙がいっぱいで色とりどりである。可愛い手帳と鉛筆を買った。ふと、存在感のあるボールペンへ目がいく!テレビの「ウルルン・・・」で放映していたデルタ社の一品である。迷わず、大阪にいる愚息へのお土産になったことは言うまでもない。

 この先にメディチ家のビッティ宮があったのだ。19世紀にイタリアが統一され、フィレンツェに首都が置かれた際に、ここが国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王宮として使用された。こんなに近くまで来ていたのに、事前調査不足で行きそびれてしまった。

Img_0067 (写真26)

 オレンジがかった茶色の屋根の下には楽しみが詰まっている。散策は折れ線グラフのようにつづく。自慢の革製品・職人技の手袋を購入した。この冬が楽しみである。ハンカチも綺麗だ。繊細な刺繍が几帳面な気質を伝えている。

 ラザーニアが美味いと聞いて「ネッラ」を散々探した。見過ごしてしまいそうな小さな路地にやっと見つけた。間口2間ほどの小さなお店だった。お世辞にも綺麗とは言えないが、テーブルはいっぱいである。かろうじて角の方に陣取ることができた。常連らしき人達が頻繁に訪れ、いつものランチを楽しんでいる様子である。単品で食べては帰って行く。格好つけてコース料理にすることもないと気が楽になった。目的のラザーニアは、仕込み分が終わってしまったと言う。仕方なくトマトソースのパスタ・カレッティエラにしてみた。唐辛子がピリッと利いてなかなかいける。モッツァレラとトマトのサラダ、ローストビーフを賞味した。長い時間立ち続け、歩き続けのビールは格別にうまかった。

Img_0080 (写真27)

 ウインドゥショッピングの中、ひとつ一つの店づくりに目を奪われる。写真27も思わずカメラを向けた一店である。ファサードやアプローチ、ディスプレイもさすがにお洒落だ。それに色の使い方が巧みだ。赤が効いている。更には店頭のロゴを、スライドのように奥の壁面や路面に映し出したりの感性と創意には感心してしまった。

 ジェラートは16世紀の初頭フィレンツェで生まれたと言う。街角のお店で買い求め、歩き食いをした。いい歳をして恥ずかしくも思ったのだが、童心に返って清々しい気分である。世界中から数え切れないほどの人々がこの街を訪れ、この街ならではのテイストに浸り、更なる自分発見を楽しんでいるようだ。

 イタリア「最後の晩餐」はダンテスカにした。昨夜の白牛のステーキをもう一度食べたかったからだ。ここは、オステリア(大衆的なリストランテ)にピッツェリアをプラスしたような店で、オーナーはナポリの出身と言う。薪釜で焼き上げるピッザはナポリの本格派で、モチモチの食感が自慢である。

 前菜はフレッシュサーモン、一の皿は魚介のピッザ、二の皿は白牛のグリルにポルチーニのソテー添えだ。白ワインがすすむ。白ワインが空いていく。ドルチェ、カプチーノでフィレンツェをお腹におさめた。

Img_0076 (写真28)

 何気ないフィレンツェの朝、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂をつつむ清らかな空気が荘厳さを際立たせる。まだ人もまばらなドウオモ前の広場には数人の絵描きが集まっている。写真28左側の絵描きは、白と緑の大理石で構成された外壁を借景に自作の絵を展示している。そして、新たな制作に余念がない。右側の絵描きは、着いて間もないのだろう、自転車から画材をおろし何か話しかけている。パリのモンマルトルの丘の風景とは違う、ゆったりとした空間がこの街らしく思えた。

 今日の午後帰路につく。いつものことだが、最後の荷造り前にその地の食材を購入する。それもスーパーマーケットに行くのが常になっている。整然とディスプレイされた広い店内を歩き回った。勿論ここではパスタ系に決まっている。唐辛子やイカ墨、ほうれん草やトリフまで練り込んだ物がある。フットチーネ、ラビオリ、ペンネときりがない。トマトソース、パルメザンチーズ、オリーブオイルとショッピングカートの隙間がみるみる埋まっていく。この調子ではバゲージは確実に重量オーバーだろう!!渋々切り上げてスーパーを後にした。両の手に大荷物である。

 今までシーフードのパスタにもパルメザンチーズをかけていた。イタリアではかけないんだそうだ。何故かそう言うものらしい。

 ペレトーラ空港に向かう。すっかり見慣れた街のたたずまいを抜けると、とたんに渋滞にはまった。いつもなら15分位の距離らしいが30分もかかってしまった。ついつい重くなってしまったバゲージを、おそるおそるカウンターに載せた。デジタル表示は、ゆうに20キロをオーバーしている。そうだ!七福神シールだ!!受付カウンターのお嬢さんにHAPPINEES SEVEN GODS と言いながら手渡すと、大喜びのグラツィエ!である。当然、超重量のバゲージは、おとがめもなく検問を突破したのである。乗り物の神は恵比寿様だ。持参した30枚の七福神シールは、様々なシーンで御利益を授け、全て使い果たした。

 国が違えば生活習慣や環境も異なる。石の家と木の家では、文化の色合いも変わってくる。ローマはもとより、この街でもこの石、この色、この形・・・の家づくり・街づくりが、時代の様式になぞられ、守られ、めんめんと紡がれてきたのであろう。併せて、その形状や感覚、技術や心根を継承する人間力も脈々と継承されてきた。特徴ある地域の資源、物産に高い評価と権威を与える産業・芸術・工芸が文化の資質を向上させ輝ける歴史を創造する。これらの意識が、無意識のうちにこの街、この街の人のDNAになっているのだろう。求めても尽きない観光の奥義を見たような気がした。

 花火の日に行かなければ観光にならないのではなく、いつ訪れても心に響く伊東を創らなければ・・・何が大切なのか、どのように守るのか、いかに育てるのか・・・あらためて考えさせられたイタリアだった。

 革の鞣しと縫製は天下一品、ピタッと指に手掌にフィットする手袋、伝統工芸ここだけのマーブル紙、綿密に紡ぐ手作りのレースは勿論、伝統・文化に裏打ちされた斬新なファッション、アンティーク、チーズ、ワイン、オリーブそして料理と、この街の楽しさは尽きることがない。

 ペレトーラ空港を離陸して、およそ100分、パリ・ドゴール空港に着く。ここから成田へ約12時間!伊東に帰り、数日ぶりにハンドルを握ると、頭の中にはまだフィレンツェがいる。土地勘が狂っている。絡んだ糸を解きほぐすようにゆっくりと運転した。

Img_0063 (写真29)

 2004年4月8日から14日までのヴェネツィア・ヴェローナ・パルマ・フィレンツェの旅を紐解きながら、同年11月にイタリア紀行として著作したものです。写真も自作なのでピンぼけもご愛敬としてご容赦ください。                               

                                          著作/西島 彰

 

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